その人は、夢を手で書き実現する。「てがきびと」

第5号 「人生の俯瞰図を描く人」松沢哲郎

1日の行動を時間単位で記録し続けたノート。そこには色鮮やかに、長い人生が描かれていました。


第5号 「人生の俯瞰図を描く人」松沢哲郎

わー、アイちゃんだー!

「ワォ・ワォ・ワォ!」「キャー・キャー・ギャー・ギャー!」
わ、驚いた!
愛知県の名鉄犬山駅からタクシーで10分、〈京都大学霊長類研究所〉の正面玄関前に降り立った途端、けたたましい雄叫びが響き渡るのである。見れば右手に、鉄骨で組まれた高さ20メートルにも及ぶ櫓のようなチンパンジーたちの住処が。おお、これが『アイ・プロジェクト』の大型ケージなんだな。

ほう、そんなに騒いでました? それはきっと喧嘩でもしてたんでしょう。

── あ、別に珍しいことじゃないんだ。初めまして、松沢哲郎先生。今日は、ノートの取材、よろしくお願い致します。

あ、その前にね、やっぱりチンパンジーたちを見ていただきましょうか。

ご挨拶もそこそこに、先生、なんだか嬉しそうに席を立ち、我々スタッフを率いて先ほどのケージへと向かうのだった。
5階にある研究室から鉄の階段を渡って別棟へと渡り、突き当りのドアの前で、静かに一礼。ん? ああ、今年の9月30日夜に亡くなったチンパンジー、レイコさんの遺影が飾ってあるんですね。享年47歳。1968年に、この研究所に来た最初のチンパンジーだったんだ。僕も拝もう。
ドアを開けると、そこは、いきなり外。渡り廊下の向こうに、犬山市街を背景に鉄骨の櫓がデンと構え、そのあちこちにチンパンジーたちが。

チンパンジーにも我々にも、しっぽがないのだ

高さ20メートルのケージのあちこちにチンパンジーの皆さんが

フーホー・フーホー・フーホー! ワオォー・ホッホホ!

── うわ、またビックリした! 今のは先生の声ですか?

そうですよ。

── なるほど、こうやってチンパンジーとコミュニケーションを取るわけですね。わあ、いっぱい居るなあ。

今は全部で13人居ますね。(注・先生は匹ではなく、人間と同じように人で数える)

── 向こうにいるのは、小さい猿ですね。

あれはアカゲザル。猿はしっぽがあります。チンパンジーにはない。あなたにもない、僕にもない。

── そうか、ヒト科チンパンジーですもんね。ヒトと近いわけだ。

はい、手! 違う違う、それは足でしょ。はい、オープンマウス!

── あ、もしかして、今、声掛けた、その天辺に居るのがアイちゃん?

そうです、あれがアイです。(注・文字や数字を認識するとして有名になったチンパンジー。詳細は京都大学霊長類研究所ホームページに)

先生もチンパンジーも実に嬉しそうです

先生の雄叫び(?)に雄叫びで返すチンパンジーたち。なんだか壮観である。ワクワクしてきたなあ。

では次は、彼らの勉強部屋へ行きましょうか?

── コンピュータに向かって、小さい順に数字をタッチする、あの勉強部屋ですね。

そう、それぞれの個性に合わせて色々な勉強をするんです。

── ははあ、壁は全面透明なアクリルだし、ケージから自由に出入りできるようになってるんだ。

ここはね、新しく作った部屋で、今までは棟の奥にある勉強部屋まで来なくちゃいけなかったんですが、ケージから直ぐに来れるようにしたんです。どのチンパンジーが来たのか分かるように、顔認識用の小型カメラも備え付けてね。ほら、床も一部が透明なスケルトンで、下の地面の様子が見えるようになってるでしょ。

── と言ってる間に、チンパンジーがやって来ましたよ。

フーホー・フーホー・ホワァー! ホホホホ・オオオオ~!

── わあ、透明な壁に張り付いてる。こんなに間近でチンパンジー見たのは初めてです。いやあ、今回の取材は興奮の連続だなあ!

小さなノートに4色ボールペンでビッシリと

終始、ニコニコ顔の先生に続いて研究室まで戻る。では先生、ノートについてのインタビューを始めさせていただきます。と、これですね、とポケットから出されたのはA6サイズの小さなキャンパスノート。

── 拝見します。あらまあ、4色ボールペンできれいに色を塗り分けられてる。このページはスケジュールですか?

これは記録ですね。赤が勉強や研究をしていた時間、青は打ち合わせや、今みたいに取材されてる時間、緑は休んでる、食事とかね。で、黒は寝てる時間です。黒が、ちょっと短いなあ(笑)。アフリカや海外に行くと、当然時差がありますから、黒い部分が変則的になるのもわかります。

── これならひと目で、どんな生活を送ったか分かりますね。この赤い斜線の中でも塗りつぶしてあるところは?

重ねると連続した生活の記録が一目瞭然!

チンパンジーに関わってた時間。同じ部屋で対面したりとか。

── これがアフリカでのノートですか。おや、これは緑の部分が圧倒的に多いなあ。

あ、それは森に居た時間。で赤で塗りつぶしてるのが、チンパンジーに会えた時間ですね。

── なるほど、森という特別な場所があるんですね。ところでその前のページを見ると、これはまた細かい字で、見開きにビッシリ書き込んであります。

このページは1行に1日ずつ、日記を書いてあるんです。

── だって、このノートは罫線幅6ミリなんですけど……。

これぞ、1日1行日記なり

1行に書けることしか書きません。その日、印象に残ったこととかです。

── 僕なんか、こんな小さな字が書けるだけで尊敬しちゃいます。後ろのほうには、また違うパターンのページがありますね。各ページに日付が並んでるのと、1ページを縦に2分割して見開きで4つの枠が並んでるのと。

そう、これは将来の予定ですね。先の予定ほど、ページを細かく割ってある。

── う~ん、合理的。

大体、3週間で1冊使います。今、このノートで191冊目。全部、このキャビネットに保管してあるんですが。小さなノート方式に代えて10年分くらい。

── ホントだ、年号毎にまとめられてます。

これ、記録のページを見開きにして、ずらっと並べると、ほら。

── なるほど、ずーっと連続して過去の自分の生活が分かるんですね! あれ、この表紙の色の違うキャンパスノートは何でしょう?

えーと、これは一生だね。1行1年。生まれた1950年から始まって、ああ、勝手に2039年まで書き込めるようにしてある(笑)

始まりは方眼紙、高校3年生の夏休みのことだった

── 先生は17歳の時から、こういうノートを付け始めたって伺ったんですが、元々、メモ魔だったりしたんですか?

いや、別にそんなことはなかったですね。ごく普通。それに最初はね、ノートじゃなくて方眼紙でした。

4色ボールペンでびっしりと

── 方眼紙?

高校3年生の夏休みに受験勉強始めようと思って。本来、それからじゃ遅いんですけどね(笑)。それで「1ミリ6分間勉強法」って名付けたやり方を考え出しました。

── お、面白そう。

方眼紙って横幅が25センチなんですね。日付で1センチ使って残りが24センチ。これを1日24時間とすると1時間1センチで、6分が1ミリになる。

── うんうん、そうですね。

で国語とか英語、数学、それぞれに色分けして、勉強した時間を塗りつぶしていく。

── すごい、現在のノートの原型。

でもねえ、どんなに頑張っても1日14時間勉強するのが限界でした。平均すると1日12時間だったなあ。

── それ、充分にすごいと思いますけど。

僕なんか、これさえあれば何処へでも行けますよ

巻紙にしてありましたからね、1ヶ月で長さが30センチになる。2ヶ月で60センチ、半年で1.8メートル。ちょうど背の高さと同じくらいになって受験を迎えたというわけ(笑)。

── それって多分、塗りつぶして行く楽しみもあったんでしょうね。

そう。それに、今のノートでもそうだけど、仕上がりの美しいことが大事。そうじゃないと続きません。今の例は記録だけど、予定に使える別のやり方もしててね。

なるほど、効果的な勉強法だなあ

── どんな方法でしょう?

例えば参考書に200問の問題が載ってて、これを20日間でやると決めたとします。縦軸に200問、横軸に20日間という目盛のグラフを書いて、原点から右上へ斜線を入れちゃう。1日10問出来れば、この斜線の上に乗るわけです。

── そういうことですね。

でもすこしサボると斜線から下に、ずっとサボると横線になって進んでいく。これはちょっと耐えられない。いや、まあ、どうやって勉強しようかと考え出しただけなんですけど(笑)。

── 今はこのキャンパスノートを愛用してらっしゃるんですね。それはどうして?

10年くらい前まではA4サイズのキャンパスノートを使ってたんです。それだと、たくさん書き込める。でもね、そんなに働いちゃいけないと思って(笑)。

── このサイズのほうが持ち運びやすいですしね。

そう、僕なんか、このノートとiPhoneと財布さえポケットに入れれば、どこへでも行ける。

── しかし、見事な使われ方です。この際、コクヨから同じ形式のノートを発売するよう提案しておきましょうか?

将来の予定のページは、こんな具合

いやいや、それじゃダメ。誰かの作った手帳じゃダメなんです。まっさらなノートに自分で考えてオリジナルを作り出す、こうじゃないと。全く自由がいい。それにね、このノートなら日本中どこでも手に入るから買い置きをしなくて良い。そのうえ、安い(笑)。

── 確かに、そうですね。

僕の指導する学生は直ぐに見分けが付きますよ、皆、このノート持ってるから。4色ボールペンを使っているから。研究室にあるのを自由に持って行っていい。でも、使い方は各々で工夫させています。

── 研究室にはもちろんパソコンが有りますが、持ち歩くのは、やはりノート?

フィールドノートが原型だから。アフリカには電気がないし。ソーラーパネルは付けたんですけどね。でもロウソクとノートがあればフィールドワークは出来る。日常生活でも同じです。「常在戦場」という気持ちです。

── こういった生活ログならコンピュータで打ち込んだほうが楽な気もしますけど。

コンピュータはキーボードにしろスクリーンにしろ、指先でタッチしますよね。ところが人間の指というのは、タッチするために進化してきたわけではない。握って、つまんで、指差す、という三つの行為のためにある。タッチは、その「指差し」しか行ってないんです。やっぱり、手でペンを持って書かなければ。

── 僕はワープロで文章書き始めた頃、自分の文体が変わりそうになって困りました。予測変換に頼っちゃうと、まあいいか、と当初の文章と違うもので妥協しちゃうんです。

『想像するちから』岩波書店
チンパンジーの研究から、先生は人間とは何か?を考えます

「薔薇」という字を書け、とまでは言いませんが(笑)、約千の教育漢字か、約2千の常用漢字くらいは、ちゃんと書けるようにしたいですよね。書き順も含めてね。

── 予測変換などに頼っちゃいかん、ということですね。

そうです。予測変換に慣れてしまうとダメだと思いますよ。読みだけですから。ぼんやりした知識です。心理学で言う「再認」と「再生」の違いですね。文字を読める(再認)だけではいけません。自分で文字を書くこと(再生)で、より確かな知識になります。

── う~ん、アイちゃんたちに負けないよう、「手書きびと」として精進します。ありがとうございました。

こちらこそ。僕の仕事は、最終的には英語で論文を書いて発表することです。でもそんな論文って、おそらく世界で20人ぐらいしか読んでくれない。だからこうして、メディアを通じて国民の皆さんに少しでもチンパンジーのことを知ってもらえるのは、とても嬉しいんですよ。

2013年11月26日

松沢哲郎

思考言語分野教授、理学博士、文化功労者
1950年10月生まれ

1969年京都大学入学
1974年京都大学文学部哲学科卒業、大学院進学
1976年京都大学霊長類研究所に採用、現在に至る

国際霊長類学会長、日本学術会議会員、日本霊長類学会評議員、
日本動物心理学学会理事、日本赤ちゃん学会副理事長、
日本モンキーセンター理事、中部学院大学客員教授