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コクヨ・オリジナル余話

コクヨオリジナル余話 「ビーロマティーク」 コクヨクロニクル

ビーロマティーク(便箋自動製造機)
ビーロマティーク(便箋自動製造機)

常に新たな技術に挑戦する。

戦後復興が急速に進んだ1950年代、日本は、後に「東洋の奇跡」と呼ばれる高度経済成長期を迎えつつあり、56年の経済白書には「もはや戦後ではない」と書かれるほどでした。こうした急激な経済成長にともない、大量生産、大量消費の時代が到来、コクヨ製品の需要も急増し、生産設備の刷新、拡充が喫緊の課題となりました。

そこでコクヨは、最新の生産技術を求めて視察班を欧州へ派遣、ついに59年5月、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフ市で開催されていた世界最大の印刷機材見本市DRUPA(Druck und Papier/国際総合印刷機材見本市)において、ビーロマティーク社(bielomatik Leuze Gmbh Co.KG)により開発、発表されたばかりの理想的自動生産システムに出会います。

それは、巻取原紙から印刷を起こして、切断、数読み、丁合などの後、必要な製本工程をすべてワンラインで自動加工し、完成品としてデリバリーするという画期的な設備でした。コクヨは導入を即決、その年のうちに同社の技術者を招聘し、生産ラインの仕様協議がスタートしました。さらに、この最新設備導入のために、新工場(八尾工場)の建設も決定します。ビーロマティーク機第一陣は、この工場の完成に合せて1961年に導入されますが、原紙の問題、機械部品の不具合などで、当初は連続稼働が難しい状態でした。社内技術部門は、メーカーと頻繁に情報交換するとともに、独自の改良努力を重ね、62年の春、ようやく完全稼働を実現、当時としては世界的でもあまり例のない、紙製品の自動生産体制が確立されたのでした。

コクヨの生産設備近代化への歩みを一気に加速させたビーロマティークは同時に、常に新たな技術革新に挑戦するという気風を社内に生み出す貴重な体験となりました。

ビーロマティーク導入のきっかけとなった昭和33年のDRUPA会場
ビーロマティーク導入のきっかけとなった昭和33年のDRUPA会場
竣工当時の八尾工場(大阪府八尾市/昭和36年5年)。世界でも類を見ない規模の紙製品生産工場であった。
竣工当時の八尾工場(大阪府八尾市/昭和36年5年)。世界でも類を見ない規模の紙製品生産工場であった。

(注)八尾工場に導入されたビーロマティーク機は、便箋自動製造機3台、伝票自動製造機2台。その後、同機導入の経験をもとに、初の自社開発機、複写簿自動製造機が導入されました。これによって、当時のコクヨの3大主力商品(便箋、伝票、複写簿)が、すべて自動生産ラインによって製造できるようになりました。

コクヨオリジナル余話一覧

  1. 表紙
  2. 和式帳簿
  3. 洋式帳簿
  4. 色紙付書簡箋
  5. ビーロマティーク
  6. 紙から鉄へ
  7. オフィス全館ショールーム
  8. キャンパスノート
  9. 測量野帳
  10. ミュージアムケース
  11. 物流
  12. 流通・販売ネットワーク
  13. 家具生産
  14. ユニバーサルデザイン
  15. 社名と商標
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