その人は、夢を手で書き実現する。「てがきびと」

第13号 「ザックジャパンの真髄を書く人」矢野大輔

監督とひとつになり、勝利へと向かう。通訳者のノートには、日本代表の魂が書かれていました。


第13号 「ザックジャパンの真髄を書く人」矢野大輔
「4年間ノートをつけることで助けられたことが多かった」と語る矢野さん

「4年間ノートをつけることで助けられたことが多かった」と語る矢野さん

まだ記憶に新しいFIFAワールドカップブラジル大会。
2試合を終えた時点で1敗1分けだった“ザックジャパン”は、背水の陣で第3試合に臨んだが、結果は無情なものだった。その翌日(現地時間2014年6月25日)、代表チームの解散とともにその役割を終えた1冊のキャンパスノートがあった。4年間にわたってザッケローニ監督の通訳を務めた矢野大輔さんのノートだ。

── ザッケローニ監督から直接連絡を受けて通訳になったのが2010年。それからノートをつけはじめたそうですが、4年間で何冊に?

19冊ですね。日によっても違いますが、多いときで1日3ページ。だいたい2~3カ月に1冊のペースで書いていました。

── 日本語だけでなくイタリア語の文章もちらほら見えます。これはザッケローニ監督の専属通訳としてのノートなんですか?

ザックジャパンの神髄が書かれた19冊のノート

ザックジャパンの神髄が書かれた19冊のノート

いや、プライベートのことも書いてあるので、4年分の「日記」ですよね。でも中心になるのはもちろん日本代表のことです。たとえば戦術のこととか、監督と選手の会話とか。

── かなり詳細な内容ですけれども、いつ書いてたんですか? 代表チームの通訳ともなれば、毎日とても忙しいと思うんですが。

いつも寝る前に書いてました。たとえば合宿中は、監督がその日の総括をして、すべてのミーティングが終わるのがだいたい夜の11時前後。日記を書くのはそのあとです。寝る前に毎日1時間ほど書いていました。

── その日にあったことを1日の終わりに整理する、と。

そうです。それだけで監督の言葉や、新しいサッカー用語を自分の中で定義付けできるようになる。次に同じ言葉が出てくれば、サッと訳せますからね。

── たしかにサッカー選手にしか通じないような感覚的な言葉を訳すのは、とても難しそうですね。

まさにそうですね。たとえば、ザッケローニ監督が試合中に「デービ ロッターレ!(devi lottare!)」と言う。これは「戦わなければいけない!」という意味なんですが、その気持ちも選手に通じなければならない。だから僕は選手たちに「ばちばち行け!」と日本語で伝える。 おそらく正確な日本語じゃないですけど、サッカー選手ならしっくりくる言葉遣い。自分がサッカーをやっていた強みだと思います。

愛用していたのはドット入り罫線シリーズ

── 日記をつけていて他に良かったことはありますか。

日記をつけることで、監督や選手の思いや感覚を整理して共有できたことは大きいです。それから、僕にとってすごく大事だったのは、自分と向き合う時間が作れたということですね。

── 自分と対話する時間、ということですか?

日本代表に求められる複雑な戦術が書き込まれている

日本代表に求められる複雑な戦術が書き込まれている

そんなに大げさな意味ではないんですが。通訳というのは、極端な話、朝から晩までずっと他人の話をしてるんです。人の話を聞いて、それをまた別の人に伝えるのが仕事。つまり自分の時間がないんですよ。下手をすると、自分が主体的に考える時間がまったくなくなってしまう。だから僕は毎朝必ず30分は1人で走るようにしていました。それから、夜、日記をつけることで1人になれる。ノートに日記を書くことで気持ちも楽になった。

── ノートに助けられた。

はい、助けられました。これは僕の持論ですが、ノートをつけて、そのときの思いや状況をアウトプットすることによって、それぞれのシーンが思い浮かびますし、いろいろなことがより鮮明になる。ある程度の労力をかけて日記を書くという行為は、物事を整理するにはいい方法だと思う。

── ノートをつける習慣は元からあったんですか?

選手時代からサッカーノートはつけていたので、比較的慣れていたほうかなとは思います。でも22歳で選手を辞めてからの8年間は、日記はつけていませんでした。

── この19冊のノートはほとんどがキャンパスノートですが、何か理由があったのでしょうか。

だって、「ノート」といえば「キャンパス」でしょう(笑)。小さい頃から馴染み深いですし、罫線の点が使いやすい。

── ドット入り罫線のシリーズを使われてますよね。

そう、このドットが図を描くのにも適してるんです。サッカーのポジションは、図に起こす場合でも微妙な距離感がとても大切なんです。たとえばディフェンスラインの距離感とか、このドットがあれば、選手間の距離の微妙な案配を描きやすい。ドットのちょうど上に描いたり、ちょっとずらしたり。だから僕はいつもこのシリーズを5冊パックで買ってました。

身近な「てがきびと」に刺激を受けた

「ちらほらイタリア語が混じっているのは、ザッケローニ監督の言葉をそのまま書いてるからです」

「ちらほらイタリア語が混じっているのは、ザッケローニ監督の言葉をそのまま書いてるからです」

── 日記をパソコンで書こうと思ったこともあったそうですね。

はい。最初は「パソコンでもいいかな」と思ったんですが、すぐに思い直しました。

── そのあたりの、「てがきびと」としてのこだわりを教えていただけますか。

日記って、読み返して再発見することもあるんですよね。僕もノートを読み返してみると、字が雑な時とそうでない時があるんですよ。パッと見ただけでメンタルのコンディションがわかるというか。特に負けが込んでいたときはやはりノートからそれが伝わってくる。逆に調子のいいときは、色を多く使っていたり。日本代表が優勝した2011年のアジアカップや2013年の東アジアカップのときなんかは、文章だけじゃなく文字にも高揚感があるように思います。

── ちなみに矢野さんの近くにはすごく刺激的な「てがきびと」がいたとか。

香川(真司)、清武(弘嗣)、エンド(遠藤保仁)など、ザックジャパンを支えた選手たちの名前が。練習の緊張感まで伝わってくるようだ

香川(真司)、清武(弘嗣)、エンド(遠藤保仁)など、ザックジャパンを支えた選手たちの名前が。練習の緊張感まで伝わってくるようだ

身近な「てがきびと」といえば、ザッケローニ監督ですよね。本当にスゴかったです。僕の5倍くらいは書いていたと思いますよ。彼の場合はノートじゃなくてA4サイズの紙を常に持ち歩いていて、思ったことをバーッと書き散らしていく。家に戻ってからそれをパソコンで清書するというスタイルでした。

── やはり刺激を受けた?

それはもう。たとえば毎週末、一緒にJリーグの試合を見るんですが、同じ試合を見ても言語化する情報量がぜんぜん違う。「どうしてそんなに気づくことがあるんだ」と驚きましたし、サッカーに対する情熱を間近に見せつけられて。僕がこのノートを付けていた大きな理由ですね。

自分と息子たちの成長記録でもある

── 4年間、ほとんど毎日書き続けたこのノートは、矢野さんにとって、どんな存在ですか。

なんて言うのか、ひと言で言えば、財産ですよね。僕の宝物です。

── 貴重な経験がすべて書かれているんですもんね。監督や選手を間近で見てきた矢野さんの目を通して書かれた日本代表の記録。

それだけじゃなく、僕の成長記録でもあります。改めて読み返してみると、内容も変化していることがわかるんです。最初のころはその日にあったことをかなり要約して書いているんです。

── いったん自分の中で消化したものを書いている、と。

よく言えばそうですが、たとえば「本田選手と日本サッカーの未来の話をした」とか、漠然としたことを書いてた。でも、ワールドカップ直前の頃は監督と選手の長い会話もほぼそのまま書いてますね。

── それはどういうことですか?

長い会話を覚えてるんです。

2冊のノートを収容できるカバーノート「システミック」を愛用していたという矢野さん。「たとえば14冊目を書いているときに13冊目も持ち歩くことで、監督や選手の言葉の微妙な変化がわかった」

2冊のノートを収容できるカバーノート「システミック」を愛用していたという矢野さん。「たとえば14冊目を書いているときに13冊目も持ち歩くことで、監督や選手の言葉の微妙な変化がわかった」

── 監督と選手の会話を、ぜんぶ?

ええ、ほとんどそのまま繰り返し言うことができます。通訳の仕事って、記憶力も大切なんですが、この4年間で僕の通訳としてのスキルも上がったことがノートからわかるんです。

── なるほど。

矢野さんの19冊のノートから4年間のザックジャパンの全貌が浮かびあがってくる名著。『通訳日記 ザックジャパン1397日の記録』(文藝春秋)好評発売中

矢野さんの19冊のノートから4年間のザックジャパンの全貌が浮かびあがってくる名著。
『通訳日記 ザックジャパン1397日の記録』(文藝春秋)好評発売中

あと、ノートを付けていた理由がもうひとつあります。実は2人の息子たちの成長日記でもあるんですよ。日記をつけはじめたときは長男がまだ2歳だったので、父親が4年間日本代表の仕事をしていても、大きくなったときにはたぶん覚えてないだろうなと。

── いつか教えてあげようと。

たとえば2012年1月23日にはこんなことが書いてあります。「朝から長男と鎌倉観光。小町通りを歩く」とか。「その後、お参りをしてバスに乗って大仏を観に行く。本当にカワイイ。子どもが大仏の真似をしたり、石で囲碁をしようって言ってきたり」って、他愛もないことですけど。

── でも、お子さんにとっても宝物のノートというわけですね。

そう思ってくれればいいな、と。このノートは誰にも読ませないつもりで書いていたものですが、やっぱり書き続けてよかったと思いますし、こうやってモノとして残っているといいですよね。

── またノートに日記を書きはじめる予定は?

今は書いていませんが、近々また新しいことを始めるときには、ぜひ書きはじめたいと思っています。

2014年12月3日

矢野大輔

元サッカー日本代表通訳

1980年7月19日、東京都生まれ。セリエAでプレーするという夢を抱き、15歳でイタリアに渡りトリノの下部組織でプレー。22歳でトリノのスポーツマネジメント会社に就職。デル・ピエロを始めとするトップアスリートのマネジメントや企業の商談通訳やコーディネイトに従事する。2006年から2008年にトリノに所属した大黒将志の通訳となる。2010年9月、ザッケローニ日本代表監督就任に伴いチーム通訳に。ブラジルW杯終了後、監督の退任とともに代表チームを離れた。